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コラム

東大生日記 diary4『君たちはどう生きるか』を読んで(執筆者:文系T)

真山メディア編集部

近頃の若者は、何を考えているのか――。
未来のエリート候補と言われている東大生の“今”を、彼らの言葉で綴る。
そこから覗くのは、希望か、絶望か。

執筆にあたり、各人の共通初回題材として『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)を読み、考えを述べてもらった。
本書は、1937年に出版され、時を経て漫画版が異例のベストセラーとなっている。戦前に書かれた本が、なぜ今、現代人の心を捉えたのか。本に込められたメッセージがこれからの未来を担う彼らにどう受け取られているのかを探る。

■diary4『君たちはどう生きるか』を読んで

私はどう生きるか。この本を読む前からその答えはとうに決めてあった。私は生涯を掛けて、身近な人々を愛し大事にし、その上で日本が平和な社会として発展しつつ持続していくために社会改革をしたい。ここでいう身近な人々とは、自分の生活において自分と密な関係にある家族や友達、仲間などである。

いきなり社会改革というと突拍子もない感じを受けるだろうが、身近な人々を大切にしようとすることと社会を良くしようとすることは実は密接に繋がっている。人間というのはどう抗おうとも社会的な動物である、と私は考えている。社会的な動物である人間は、自分以外の人間と支え合わなければ生きていくいことができない。

作中の叔父さんが指摘するように、人は知らず知らずのうちに、途方もなく大量の人々を内包する生産関係の網の中にいる。この本が書かれた時代から降った現代においては、更にその網が広範化し複雑化している。即ち私が大好きな家族や友達はそうした社会の一部であり、その生活が社会状況に大きく左右される存在なのである。
私は彼らや彼らの子孫、そして私の子孫に幸せな暮らしをしてほしいと願うからこそ、社会の健全な持続のために努めなければならないと思うのである。また単純に、私が日本と日本人が好きなので、日本という国が今後もこの国際社会を生き抜いてほしいという思いもある。

社会改革と大雑把に言ったが、その詳しい内容をここで書くことは控える。最近改革のアプローチの仕方に悩みを抱えているという理由もあるが、それ以上に、人の人生において最も大事であることに焦点を当て、それを伝える難しさについて考えたいと思うからである。それは、身近な人々と深い人間関係を構築し持続していくことの尊さ、身近な人たちを愛する尊さである。

『君たちはどう生きるか』を読んだ時、叔父さんの提示する道徳観に深い共感を覚えるとともに思ったことは、この本の著者がやろうとしていたことは、私が最近、試行錯誤していることに似ている、ということであった(そして偶然にも著者は私の高校の先輩であった)。それは、自分が思う「人間の幸福」を知らない人々に、その幸福を実感してもらうにはどうすればよいのだろうか、ということである。
叔父さんがコペルくんに色々教えるのも、人間として立派で美しく幸せに生きてほしいと思うからであるが、私も愛する人に幸せになってほしいと思えばこそ、愛する人に深い人間関係の真髄である「人を愛するということ」を知ってほしいと思うのである。そして、それを伝えるのは言葉では限界があるとも感じるのである。
よって以下では、まず、人を愛することとその尊さについて、次に、それを伝えることの難しさについて、書いていこうと思う。

愛とはどのようなものであろうか。私の両親はプロテスタントのクリスチャンであり、生まれた時から今までキリスト教の価値観が私の根本を規定してきた。そして「愛」はキリスト教において最も大事なキーワードの一つである。とはいえ私はたった22歳の未熟な人間であり、愛とは何かを語り尽くすことができるほど人生経験を積んでいるわけではない。
そんな私がこれまでの経験と知識から思う、人を愛するということとは、自分の損得に関係なく、その人を中心にその人を慮り、その人を大事にし、与え、許し、心配し、その人の幸せを願い……、一言では言い表せず、またどんな言葉を使っても言い表し切ることなどできないことである。
言い表すことは難しいが、愛を源泉として他者と繋がることこそが人間として最も深い喜びや幸せとなるような気がしている。3つ目の「おじさんのノート」で叔父さんは、「本当に人間らしい関係」について、見返りなど求めず「人間が、人間同志、お互いに、好意をつくし、それを喜びとしているほど美しいことは、ほかにありはしない。」と書いているが、まさに愛とはこの「本当に人間らしい関係」を媒介するもののことではないだろうかと思う。

2つ目の「おじさんのノート」は「真実の経験について」という題で記されているが、まさに私も、実際に体験し実感しなければ分からないことはたくさんあると思う。叔父さんは自分が感じたことを大事にしなさい、とコペルくんに説いているが、実際、様々な経験を積んで色々なことを感じたことがある人にしか心からの善行を行うことなどできないし、心からの善行を行う人が立派で美しく幸せな人であると思う。
同様に、善行の究極的な形である「人を愛する」ということも心から行うことができなければ、ただの自己犠牲で損なことにしか思えないであろう。本当は人にとって一番幸せなことであるのにも関わらず。

人を愛するという能力は後天的なものであると私は考える。生まれたての赤ん坊は食べ物や心地よさを求めて泣く。ミルクが欲しい、愛情が欲しい、と泣く。赤ん坊は超自己中な生き物で、自分の欲求に体が支配されている。しかし親に存分の愛情を注がれて成長していくにつれ、それまでは人から何かをもらう喜びしか知らなかったのに、人に与える喜びを知り、ついには人から愛されるだけの存在から人を愛することができる存在へと脱皮するのである。
つまり、人は愛されなければ、正確には愛されているという実感をしたことがなければ、愛の素晴らしさなど実感できず、人を愛することなどできないのではなかろうか。
先ほど私が愛するとはどういうことかを言葉で表すことは難しいと書いたが、もし私が非常に説明上手で言い表すことができたとしても、相手が愛を実感したことのない人であったら、その言葉は本当には通じないと思うのである。

そういうわけで、人間の真の幸せを得るには人を愛する喜びを実感することが大切で、人を愛することができるようになるには人から愛されなければならない。
ある人を幸せにしたいのならば、まずその人を愛すことが大事なのであり、愛は言葉で伝えるだけでは不十分なものなのだ。態度でも示し続けなければならない。その人を愛し続け、愛をその人に認識される形で示し続けなければならない。それは全く簡単なことではない。激しい痛みが伴うかもしれないし、多くの時間と労力をかけても伝わらないかもしれない。
しかしそれでも愛す。それが、私の出した結論である。

同様に、『君たちはどう生きるか』を読んで、その内容に深く共感できるのならば、自分の大切な人にもその内容を実感してほしいと思うのならば、それを言葉で伝えるだけでなく、行いでも示すことがより大事なのである。
生きた例としてあり続けること、それが愛を伝えること、人間らしい生き生きとした生き方を伝えること、周りの人たちや次世代の子供たちを幸せにすることの第一歩になるのだと、私は信じている。
【文系T】

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